ヨシタケシンスケさんの哲学シリーズを力技で読み聞かせに使う。
いやはや、久しぶりにこちらのブログを覗いてみたら3ヶ月も放置していました。
夏休みと運動会シーズンでどの学校でも絵本読みの時間がなく、行事続きで私自身も絵本から離れる時間が多い時期でもありました。
今日は、久しぶりの読み聞かせの時間で使ったヨシタケシンスケさんの本のこと。
ヨシタケさんの哲学シリーズ
新刊が出たら即買うほどのヨシタケファンを自称する私ですが、読み聞かせの時間によく使うのは読みやすい「もうぬげない」や「りゆうがあります」ばかり。
哲学シリーズ(と私が勝手に呼んでいる)の3冊は、なかなか教室での読み聞かせには使っていません。なぜなら、とても読みづらいから。
絵本界に新風を巻き起こした(と私が勝手に思っている)この名著「りんごかもしれない」、平易な言葉と身近なりんごという素材を使っているのにどこまでも深い考察がこめられ、何度も繰り返し読みたくなってしまう一冊です。
そしてこれに追随する形で発売されたのが2冊目の「ぼくのニセモノをつくるには」
先日メインブログ「スズコ、考える」でも紹介しました。
当たり前に把握しているようで実はあまりわかっていない、自分自身のこと。
それを言葉にしていく、振り返っていく、その過程について考えていく絵本です。
そして満を持して発売された3冊目が「このあとどうしちゃおう」
私が先日教室に持っていった本です。
亡くなったおじいちゃんが遺した一冊のノートから、死ぬとは、生きるとは、と考えていく絵本です。
3冊とも、深い。とにかく深い。
でもタッチはとても軽い。
深刻に考え込むような内容のはずなのに、子供が笑いながら読めてしまう手軽さ。
響く子には響くし、そうでない子にも面白い本として楽しめる。そんな、多数向けの読み聞かせに必要な要素があるこの絵本を教室でも子供たちに紹介したい、と常々思っていました。
なぜ、読み聞かせが難しいのか
この3冊、自分で読むなら小学校低学年から高学年まで楽しめると思います。
学校の図書館に揃えているところも多いのではないかな。可愛いイラストで子供たちにも人気だと思います。教室に持っていくと「知ってる」と手を上げる子が半数くらいいるクラスもあるほど。
でも読み聞かせに使うには本当に難しい。
その理由は、文章ではない手書きの文字の多さです。
「りんごかもしれない」には「りんご」の近縁ではないかという設定で作者が想定した色々なりんごっぽいものが描かれ、それぞれに違う名前が付けられています。そのページの内容をしっかり説明するような文章は用意されていません。
「ぼくのニセモノをつくるには」にも「このあとどうしちゃおう」にも、同じようにぼくを説明するために箇条書きにされている部分やおじいちゃんが天国について想像したいろいろな可能性について、文章ではなく、小さめのイラストとそれぞれの名前や短い説明が添えられています。
全部読めない・全部見えない
限られた絵本読みの時間に、それぞれに書かれている文字を全部読むのはまず無理です。
そして、それをもし実行しても、絵の細部まで見えない子供たちにとってはつまらない時間にしかなりません。どこを指しているかもわからない状態で単語だけを言われてもわけがわからないでしょうから。
じゃあどうしちゃおう
考えました。どうしたら教室で楽しんでもらえるか。
3冊とも、前後には文章がメインのページが続いています。そこはそれを読めばいい。
問題は中盤の、ぼくやおじいちゃんたちが想像するあれこれを紹介する数ページです。
私が出した答えは、抜粋。
たくさんある中の、絵が大きめのいくつかを選んで、その部分だけを読む方法をとりました。そこだけ読んでも意味が分かりにくいので、「このあとどうしちゃおう」のおじいちゃんが想像した天国の部分だと「○○○『っておじいちゃんは想像してたみたい』」とか「○○○『とか思ったりしたんだね』」と子供たちに意味が伝わるように言葉を補っていきました。
「りんごかもしれない」はりんごの親戚紹介のページは絵が小さいので、黒板を使える教室ならいくつか抜粋して絵を描いちゃうのもありだなぁと考えています。
忘れちゃいけない、大事なこと。
全部は読めない、だからこそ興味を持った子には再度自分で手に取ってほしい。
学校の図書室にあるのか、地域の図書館にあるのか、事前にしらべて置いてどこに行けば読むことができるのかを知らせておけば興味ある子は自分で細部まで楽しめるんじゃないかな、と思います。
おまけ
この3冊を教室で読むのはちょっと難しいけど、
こちらの3冊は書いてある文章を読むのがメインなので教室でも読みやすいと思います。
特に「もうぬげない」は低学年から高学年まで、どこに持っていっても子供たちが喜ぶし、3分くらいで読めるので読み聞かせ用のバッグにいつも入れている1冊です。