失言、失策、場を作るむずかしさ。
お久しぶりの更新です、前回から半月以上あいてしまいました。
最初は子供の通う学校だけだった読み聞かせボランティアですが、手が足りない学校も多くてあちこちからヘルプの声が飛んできて、気付けばおつきあいのある学校が4校に増えていました、自分でもびっくりです。
週1回のところもあれば月に1〜2回のところもありで今のところなんとか無理のない範囲でお手伝いできています。
さて今日は、先日1年生の教室で私がやらかしてしまった失敗のこと。
「姿勢、いいね」
今年度初めて入るクラスでした。
元気のいい1年生、大きな声で挨拶をしてくれて、教室に余裕があったので前の方に椅子を持って来たい子はどうぞ、と声をかけ移動してもらった後のこと。
一番前に陣取っていた女の子がとても姿勢がよかったのでつい
「あ、姿勢、いいね」
と声をかけました。
照れ臭そうに笑う女の子、私もつられて笑って、絵本の説明に入りました。
読み初めて気づいた、異変
最初の1冊を読み始めて少ししたころ、ふと違和感を覚えました。
目の前の例の女の子、表情が硬い。少ししてわかりました。一生懸命背筋を伸ばし、それを保とうとしていたんです。
しまった!
と思いました。
痛恨の失敗
私がうっかりかけてしまった声のせいで、せっかくの絵本の時間に「姿勢が良い自分を保つ」ことに意識を集中させてしまった。
痛恨のミスです。
ほめたことが結果的に裏目に出てしまいました。
これはいかん、とその子の集中が背筋から離れるように、と2冊目の前に少し雑談を交えてその子にも声をかけ、なんとか切り替えてくれて一安心して最後まで読み進めることができました。
「絵本のための時間」だけど
こんな風に、大人の働きかけ方次第で絵本読みの時間がガラッと空気を変えてしまうことは割とよくあります。
先生がきた!
一番わかりやすいのが途中で担任の先生がはいってくること。
それまで純粋に絵本を楽しんでいた空気が一転して「先生に叱られないようお行儀をよくしないと」という空気が教室を巡ることがあります。
感想の時間
もう一つよくあるのが、感想の時間があると事前にわかっているケース。
担任の先生や学校の方針などによって違うのかな、発端はよくわかりませんがなぜか読後に児童が挙手をしたり先生が名指ししたりして感想を言わせる教室に遭遇することがあります。
その感想の時間が用意されていると子どもたちが聴きながら一生懸命「何を言おうか」って考えてるのが表情からわかることがあるんですね。
大人が喜ぶ回答をしようとして必死に考えてくれる。
絵本や本の中身から、おぉ!って大人が思うような要素を一生懸命探そうとしてる様子が見て取れて、あぁもったいない…とモヤモヤしてしまうことがあります。
純粋に絵本を楽しんでほしいから
いろんな学校を巡りながら、教室の子どもたちの中には「ほめられる」ことがすごく大きな意味を持つタイプの子がいるのかも、というのが少し見えてきました。
感想を言って大人に喜んでもらう、ほめられる、という経験、姿勢を褒められて嬉しい頑張ろうと思う気持ち、それそのものを否定することはできません。その子たちにとって必要な栄養素みたいなものなのだろうとも思う。
でも、読み聞かせの時間にはそれはなるべく持ち込みたくないなぁ、と思うのです。
なにかに囚われて、めのまえの絵本そのものが楽しめなくなってしまっては意味がないんじゃないかなぁと。
しつけやお行儀の指導や自己肯定感の向上を含む子どもたちそれぞれへのケアはその場限りのボランティアの私たちが背負うにはちょっと荷が重いお仕事だし、役割と違う。
私が教室に行くのは、やっぱり絵本を楽しむ時間を提供したいから。
だからなるべく、それが叶う環境づくりを念頭におかねばならないなぁと。
一言の失言で1人の子が絵本を楽しめなくなっちゃうのは、やっぱりもったいない。
さて明日の読み聞かせの時間には何を持って行こうかなぁ…
6年生の教室、選書は高学年になればなるほどむずかしい。
クリスマスの本にするか、卒業を視野に入れたものにするか、いっそ落語とか笑えるやつにするか…
そういえば。
自他共に認めるヨシタケ信者の私、新刊が出ると聞いてワクワクしています。